聖書人物の中で「ヨセフ」が位置付けられているところは、イエス様を例えられるような「指輪の宝石」です。その輝きがあったからこそ、信仰の父アブラハム、イサク、そしてヤコブ組に付き造り主の子、イエス様につながる名分では長子の権利を得る者(歴だ志上5:1)となったのです。
このような特権は、神様の一方的な恵みとは言えないぐらい、ヨセフ自身が生涯を通して見せてくれた信仰の歩みがありました。兄弟たちに捨てられる今日の内容から、ファラオ王の侍従長ポティファルの家、そして監獄に監禁され、ファラオ王の前で造り主を証しした様々な出来事から、聖書が証言するほど旧約のメシヤ(救い主)のような彼の活躍(信仰)を見るのです。
今日はこのようなヨセフが、名分としてはイスラエルの長子の権利を得られる、苦難の始まりが記されています。ヨセフの兄たちは彼をミディアン人たちに売りました。当時商人であったミディアン人はヨセフを奴隷として、エジプトへ連れて行きますがファラオの廷臣、侍従長ポティファルの目に入り、買わされました。
ヨセフが兄たちに捨てられ、売られた事は言葉では表せない悲しみを持っている事でしょう。しかし、結局ファラオ王の侍従長ポティファルに売られたという事はやがって時になったらエジプトの王の前に立つ時が来るという暗示的なメッセージがあるのです。これは、訳分からない苦難を通して、彼を成長させる主なる神様の計画であり、エジプト王の前に立つ時すべてが明らかになり、今は知らないが後には知られ、そして栄光を受けるという意味を持っているという事でした。問題は、今見えない、理由が分からないという時、私たち信仰者はどのような選択、忍耐深く誠実さをもって待ち続ければ良いのかです。
重要なのはイエス・キリストの信仰により造り主の子となった私たちには、「何の意味のない苦難がない」という事です。すべて「主のご計画によるものであり、目的がある」という事です。それで、今苦難があり、思い煩うことがあったら、それを不幸に思わず、主なる神様のご計画は何であるのか、祈り求めるべきであると思います。そして、日々を誠実で忠実な信仰生活のために励む事が大切であると思います。
どんなに大変な事があったとしても、その苦難の後に隠されている神様のご計画を悟れば、現在の事を勝ち得て余りのある信仰者として生きると確信します。主なる神様のご計画を知る者、もしくはビジョンをもっている者は必ずその後に与えられる栄光が見えるからです。
愛する大阪ホーリネス教会の皆さん、主は生きておられます。主はご計画のまま、この世を導いておられますが、その一つ一つは、主の計画を信じ、仰ぎ見る信仰者を通して成就させておられるのです。皆さん一人一人がヨセフのように主に用いられる事を願い、どのような問題の中でもイエス様を信じて、主を仰ぎ見るように祈ります。
私たちもヨセフの様に自分の計画とまったく違う戸惑う状況を迎える時があります。ところがそのような事が「神のみ旨であり、印し」だと思った事がありますか?もし、私たちに起こりうるすべての事が「主なる神様の計画」であると思い、忍耐深く、忠実な日々を送ってきたとすれば、今までの人生が大きく違っていたのではないか、またこれからの人生は違うのではないか、と思われます。
重要なのはイエス・キリストの信仰により造り主の子となった私たちには、「何の意味のない苦難がない」という事です。すべて「主のご計画によるものであり、目的がある」という事です。それで、今苦難があり、思い煩うことがあったら、それを不幸に思わず、主なる神様のご計画は何であるのか、祈り求めるべきであると思います。そして、日々を誠実で忠実な信仰生活のために励む事が大切であると思います。
どんなに大変な事があったとしても、その苦難の後に隠されている神様のご計画を悟れば、現在の事を勝ち得て余りのある信仰者として生きると確信します。主なる神様のご計画を知る者、もしくはビジョンをもっている者は必ずその後に与えられる栄光が見えるからです。ヨセフは時が経て、創世記42章9節を見ると、ヨセフは苦難の時さえ、自分が見た夢(ビジョン)を忘れて無かった事が分かりました。「9 ヨセフはかつて彼らについて見た夢を思い出して…」
愛する大阪ホーリネス教会の皆さん、主は生きておられます。主はご計画のまま、この世を導いておられますが、その一つ一つは、どのような環境、状況においても主の計画を信じ、仰ぎ見る信仰者を通して成就させておられるのです。皆さん一人一人がヨセフのように主に用いられる事を願い、どのような問題の中でもイエス様を信じて、主を仰ぎ見るように祈ります。
0コメント