「救いを待ち望む事より大事な事」

イザヤ書 25章 9節

今日のみ言葉は、主なる神様こそ、「待ち望んでいた私の神であり、救いを与える方」であると言われました。そしてその「み救いを楽しみ喜ぼう」と賛美しています。本文で言う、その日はイスラエルがモアブ民族の圧政から自由になる日を指して言う言葉であります。しかし、前の節を見ると「主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐう」と言い、世の最後の後の後の世界に対する意味があり、遠い未来のある日の事を指したメッセージである事が分かります。確かに、ヨハネの黙示録21章では、「4. 『人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである』。5 すると、御座にいますかたが言われた、『見よ、わたしはすべてのものを新たにする』」となっています。これを「二重預言」と言います。そして「造り主による救いの御業」は必ずその通りに成就されるのです。

ところが本文をよく読んでみると、待ち望むのは「救い」だけではありません。「この方」である、主なる神様の「臨在」を共に待ち望む事が分かります。すなわち、私たちは主なる神様を待ち望むべきですが、それは「救い」だけでは無く、神ご自身を待ち望む事の大切さを教えているのです。

「救いを与える方」は、造り主の神様のみです。からと言って、御手にある「救い」だけを待ち望む事は熟成された信仰とは言えません。その「救い」を与えて下さる造り主の神、「この方」を見て、待ち望む事がもっと成熟された信仰であるという事です。神と共にいる者はすでに救いの恵みがあるからです。

私たちは「救ってください」、「助けて下さい」という祈りも重要ですが、「主は共におられる」というインマヌエルの恵みを常に、待ち望み、求める事がより重要なのです。私たちと交わる事を一番喜ばれ、願われる主なる神様である事を覚えましょう。自分の子がパパの手にある良い物のために、求める事は悪くありませんが、パパがそばにいて欲しがる気持ちをほどうれしい事はありません。すべてをあげても惜しい事は無いでしょう。

主なる神様を待ち望みましょう。その救いを、その助けを待ち望みましょう。しかし、主なる神様が好きで、愛するゆえに、主の臨在を、神ご自身をより待ち望む私たちとなりましょう。

大阪ホーリネス教会

大阪ホーリネス教会は聖書の教えと生き方が釣り合う共同体を目指していく教会です。

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